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選曲講座~大黒摩季音楽論~


Last Update:2002/01/20
Released:1997/07/25

 本論は、「スクランブルエッグ」4号(96年1月発行)『選曲講座~大黒摩季の有利・不利』記事を作成するに当たって、準備した原稿の一部です。スクランブルエッグ誌の記事を補完する意図をもって発表するものですが、本論に関しての著作権は岡田隆志が保持します。本記事を無断で複製・転載することを禁じます。

 本論の構成は以下のようになっています。

 また、今回のWebサイト公開に当たって原稿の内容についての見直しや変更はしていません。作成時期は1995年10月から1996年1月にかけてです。執筆当時、大黒摩季に関する知識はほとんどありませんので、文中にマニアックなレトリックを込めるような意図は一切ありません。


前編

(1) 楽曲のパターン分け[目次]

 大黒摩季の楽曲をおおまかに分類してみました。

    1st Album[STOP MOTION]
    1. あいつにSAY (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    2. STOP MOTION (作詞作曲:大黒摩季/編曲:明石昌夫)
    3. That's イケイケ宣言!!(作詞作曲:大黒摩季/編曲:池田大介)
    4. Time & Time~時の女神~ (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    5. 風に吹かれて (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    6. ふたり (作詞作曲:大黒摩季/編曲:池田大介)
    7. STAY (作詞作曲:大黒摩季/編曲:明石昌夫)

    2nd Album[DA DA DA]
    1. DA・DA・DA (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    2. 恋の TIME MACHINE (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    3. チョット (作詞:大黒摩季/作曲:織田哲郎/編曲:葉山たけし)
    4. DA・KA・RA (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    5. Guts My Mind!! (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    6. 求める未来が変わった (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    7. CRAZY WOLF (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    8. MAGY '92 (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)
    9. MANHATTAN BEACH (作詞:大黒摩季/作曲編曲:葉山たけし)
    10. いつか見える……きっとわかる (作詞作曲:大黒摩季/編曲:葉山たけし)

(1-a)歌詞がほどんど耳に入らず、勢いで押し切るパターン

[STOP MOTION]
1. あいつにSAY
2. STOP MOTION
[DA DA DA]
1. DA・DA・DA
3. チョット
4. DA・KA・RA

 ここが、大黒摩季のことを何も知らなくても「大黒摩季」というキーワードで想像するイメージ。
 そして、制作サイドは商業的な価値をこの部分に見いだしていることは明白です。雑誌などに音楽評をライターが書く際にアルバムの最初をつまみ聴きするだけであることを見越して、アルバムの前半にこのパターンを集中させていることが窺い取れます。

 普通に聴いていると歌詞は耳にまったく残りません。もちろん歌詞の内容もありません。リズムのキメと声の張りだけが、耳の奥に潜在的に張りつく仕様になっています。たとえていうならば、コカコーラを飲み終えたような感触で、コーラのような刺激を好む人は、また大黒摩季を聴きたくなります。それもすべて計算づくだと思われます。アメリカンビジネスって感じですか。

(1-b)歌詞としては使われない言葉を使いまくるパターン

[STOP MOTION]
3. That's イケイケ宣言!!
[DA DA DA]
2. 恋の TIME MACHINE
5. Guts My Mind!!
8. MAGY '92

 いわゆる「恥ずかしい」歌詞の羅列が続くパターンです。コカコーラの刺激に物足りない人が次にハマる受皿ともなっています。これは1-aと正反対に歌詞の強さだけが残ります。たとえていうならばDr.Pepperのような飲み心地で、「まずいまずい」と分かっていながら、そのまずさが快感に変わった瞬間、大黒摩季のとりこになってしまいます。

 制作サイドは1-aと1-bとは楽曲も詞も明確に使い分けて、それをセットで売っているようです。

(1-c)大黒摩季が歌う必然性がないが楽曲としてまあまあ許容できるパターン

[STOP MOTION]
4. Time & Time~時の女神~
7. STAY
[DA DA DA]
4. DA・KA・RA(;1-aと重複)
7. CRAZY WOLF

 このパターンは歌いかたや聞きかたを限定しません。たとえていうならアクエリアスですか。

(1-d)バラード系


5. 風に吹かれて
6. ふたり
[DA DA DA]
6. 求める未来が変わった
10. いつか見える……きっとわかる

 このパターンはかなり問題があります。バラードがバラードとして成立していません。合成着色料入りのファンタオレンジ。

(1-e)その他

[DA DA DA]
8. MAGY '92
;1-aでも1-bでもいいが、こんな曲は「楽曲」と認めたくないのでゴミ箱
9. MANHATTAN BEACH
;分類上では1-cだがこれもプロの作品と認めたくないのでゴミ箱

 駄曲です。コカコーラですDr.Pepperですアクエリアスですファンタオレンジですと言いながら中身は水で薄めたり賞味期限が切れたバッタもんです。

以上、楽曲によるパターン分け終わり。

(2) メロディライティングに関する考察[目次]

 歌先、詞先という区別はなさそうです。作っていく段階で適宜修正しながら最終的に全体の楽曲としてまとめていく様子がうかがえます。

 メロディの詞の乗せ方以前の問題点として、この作曲家はメロディ作法を歴史から学ぶ作業を一切していないため、プロの作曲家の美意識からはおおよそ離れたメロディ構造を時として何気なく使っています。それを新鮮だと受け止めるか美意識に反するからダサイと受け止めるかは、聞き手のメロディに対する美意識に依存します。

 音の跳躍はそれほどありません。音階に沿ったメロディを並べるだけですが、その並べ方が時として信じられない動きをします。いろんな音楽を聴いてきたようなコメントを「大黒摩季」と言われてる人は残していますが、ジャズでもブルースでもポップスでも歌謡曲でもブラックコンテンポラリーミュージックでもメロディ構造を歴史から体験的に学んでさえいれば、あんなへんてこなメロディは出てきません。いろんなジャンルから歌いかたの表面的なニュアンス処理ばかり学んでいたのではないかと想像できます。

(3) 歌唱方法、歌詞、および「大黒摩季」というキャラクター [目次]

 今回、2枚のアルバムを通して聴くことによって、「大黒摩季」というキャラクターがどのように見えてきたかを報告します。

(3-a) 歌唱技術

 [STOP MOTION]と[DA DA DA]を比べると、はるかに1stのそれが劣っています。
 最初のメモでは1stの頭から飛ばすことなくリアルタイムで聴きながらメモしてたら歌唱技術に関する記述ばかりが残ってしまいました。
 2ndに関しては「チョット」と「DA・KA・RA」で鍛え上げられたせいか、全編を通して大黒摩季的ニュアンスの出しかたの方法論が確立しました。
 技術的なポイントとして、リズム感、音程、発声方法ほか様々な要素が挙げられますが、1stでいちばん気になったのは音程です。聴かせどころの高い音が正確にとらえられず、アーチストの作品としてはかなり無理があります。1stと2ndの差は素人が聴いても明らかなはずです。1stを出した後に音程キープの猛特訓を積んだことが窺えます。誰でも練習すれば克服できる一例ですので、プロになるためレッスン中の方には励みになることでしょう。

(3-b) スローテンポの曲の対処方法

 この考察はメモをそのまま引用します。
 1stと2ndを聴き比べてみると、その対処の仕方に変化が見られます。

[STOP MOTION]
5. 風に吹かれて
 こりゃ全然ダメだ。全然曲にインパクトがないし、アルバムに入れるにしても 消化が足りなすぎる。私がディレクターだったらハネます。
 スローテンポになると間が持たないから、語尾をこねくり回してその場をしのごうという意図がミエミエ。
 しかも歌詞に合わせて声のトーンで表情を出そうと工夫しているのが分かるが全くそれが出来てない。
 女としてのかわいらしさを歌に表現することができないということは、ロクな私生活を送ってない証拠だ。これじゃあ共感されないと思う。もっと恋をしなさい。
 結局そういうことができないから、強さを強調する歌がそれ以後選択されたと判断されたのでは。

[STOP MOTION]
6. ふたり
 バラードらしい。歌詞はまぁ許すとして、こんなルーズなリズムでこんな感情の込めかたが下手くそなのを商品にしていいものかね。結構呆れた。
 5曲目と全く同じ現象がここでも起きてる。
 優しく語りかける歌唱技術を全く持ち合わせてないらしい。
 発表会で素人の歌を聞くよりも苦行だ(苦笑)。
 歌詞がまあまあいいだけに、こんな歌いかたをされては歌詞がかわいそうだ。他の人に歌ってもらったらよかったのに。
 洋楽邦楽問わず、こんなへんてこな歌いかたでは聴衆を説得することは無理だと断言してもいいです。これは個性ではありません。ただ下手くそなだけ。

[DA DA DA]
 6. 求める未来が変わった
 バラード。1stよりはましになってきた。
 ニュアンスの出しかたは「DA・KA・RA」「チョット」で鍛えられたせいか上手になってきたが、ニュアンスと感情は別なんで、結局この人はベタベタしたのを極端に嫌う性格なのだろうと思います。

 結局、この歌手は、声を通して感情表現をするのを止めてしまいました。
 1stでは苦労して感情を表現しようとしていましたが、それが失敗に終わりました。制作サイドの命令か本人の選択かは知りませんが、ある方法を見つけ出しました。「感情表現の放棄」です。

 バラードでもスローテンポの曲でも歌に感情は付加しない、その代わりに全曲において大黒摩季的な「ニュアンス(=歌い回し)」を徹底させるという方式を編み出しました。これならば「ベタベタした感情表現が嫌いだからそういう歌いかたはしない」という、実にもっともらしい理由づけができます。でもその本質は「感情表現ができない」ままです。「大黒摩季」という「声」の持ち主が意を決して猛特訓して次から急展開……なんてことも予測できなくはないですが、制作サイドとしてはイメージが固まりつつある時期にわざわざそんなことはさせないでしょう。おそらく3枚目以降は全編同じ歌い回しでバラードも突き放して歌っていることでしょう。

 そしてその「人を納得させる歌いかた」ができない限り、人前で歌うことは商品価値を下げることを意味しますから、動員面では成功が見込まれてもてコンサートツアーを行うことはまずありえないと考えます。コンサートツアーを始めたときは、人を納得させる歌いかたを獲得した場合か、大黒摩季プロジェクトが終焉を迎える直前だという予言をしておきましょう。

(3-c) 作詞方法

 この項目では、1-bとして分類した部分についての考察を主に展開します。

 日常使っている言葉ですが、歌の歌詞に乗せることに躊躇する「現代」を現すキーワードをあえて使っています。これについては「恥ずかしい」とか「ダサい」とかいう感覚で物を言っても始まりません。あえてそういう言葉を使う勇気は評価すべきでしょう。70年代のフォークソングがそれまでの歌謡曲作詞技法の常識を打ち破りながら支持されたことを考えると、同じ現象が起きているだけだといえるかもしれません。これは5年後10年後に大黒摩季の「恥ずかしい」「ダサい」歌詞が聴き継がれていたならば、この作詞のアイデアが革新的だったということです。

 もうひとつこの人にはテーマがあります。「女」ですね。表向きは強がっているけど内面は弱くてただの女。だけどもっと心の底では叫び続けている女ですね。その「女」を表現するための最も効果的な手段としていわゆる「恥ずかし」くて「ダサい」言葉を頻繁に使用するに至ったということも考えられます。そこには作家としての一貫性があり、その点については商業主義的な面よりも叫びが前面に出ている場合があります。小室哲哉の詞はどちらかといえば「プロ」の詞なので、同じ内容がないにしても、アーチスト性では大黒摩季のほうに若干軍配が上がるような気がします。

 その(心の)叫び、そして自分で編み出した独特の歌い回しこそが大黒摩季のキャラクターの正体にほかなりません。

(4) サウンド面の考察 [目次]

サウンド面では特に新しいものを見ることができませんでした。

 2枚を聴く限りでは当時、たぶん流行していた日本風ユーロビートがベースとなっていました。
 アレンジャーの音楽的バックグラウンドはいわゆる「フュージョン」なので、処理が面倒になったときにはすぐそのジャンルへ逃げ込んで処理しています。ギターのカッティングが発売当時を考えてみてもかなり時代遅れです。

 サウンドだけを聴いていると、そこからViVaや森高千里の声が聞こえてきますから、これがいわゆる90年代前半を代表するサウンドといえるのではないでしょうか。

 そういう観点で日本の音楽シーンにおける大黒摩季の位置を見つけようとするならば、リスナー層は違っても基本的にTPDや森高千里と同じ流行歌としてのラインからは絶対に外れないよう計算し、音楽的(サウンド面での、という意)冒険は一切していないといえましょう。

 以上、考察終わり。


後編

3枚のアルバム聴き終わった時点での感想としては、最初の2枚を聴いた分析結果とは違うことを書かなくてはいけないと思って、かなり憂鬱な気分になったのですが、気を取り直して、一応、それまでに書いてきたことをふまえて、書いておきたいと思います。

 この3枚はそれぞれ別の方向性と性格を持っているため、以前と同様な手法を用いて楽曲のパターン分けをするのは無理になってきました。なぜ無理なのかの説明をひとことでは述べることができませんので、これからアルバム毎の感想とアルバムの性格を書くことにします。それを書くことで説明ができればと思います。

    3rd ALBUM『U.Be Love』93/11/10
    特に()付きで書いてないものは、
    作詞作曲 大黒摩季 編曲 葉山たけし です。
    1.「DELIGHT」
    2.「U.Be Love」
    3.「アレ・コレ考えたって…」
    4.「別れましょう私から消えましょうあなたから」
    5.「君に愛されるそのために…」
    6.「Harlem Night」
    7.「BLUE CHRISTMAS」

■ 3rd ALBUM『U.Be Love』について [目次]

 1枚目と2枚目を通して聴き終えた時点で、私は大黒摩季の曲を以下のように5つのパターンに分けしました。
(1-a)歌詞がほどんど耳に入らず、勢いで押し切るパターン
(1-b)歌詞としては使われない言葉を使いまくるパターン
(1-c)大黒摩季が歌う必然性がないが楽曲としてまあまあ許容できるパターン
(1-d)バラード系
(1-e)その他

 ところが、このアルバムの最も重要な聴かせどころである前半にある曲は、(1-a)(1-b)のどちらでもあり、どちらでもない、融合されたパターンばかりなのです。これはどういうことなのでしょうか……。

 あくまでも推測にすぎませんが、制作サイドは2枚目までに大黒摩季の「カラー」はどこにあるのかを見つけるためにいろいろなパターンの楽曲を作って試行錯誤したのだと考えられます。その結果、(1-a)と(1-b)に集約されるという結論に至り、本アルバムではそれをさらに一歩推し進めて、(1-a)と(1-b)を融合させたパターンを作れば、「大黒摩季ワールド」が完成するとの仮説のもとに、作っていったのではないかと受け止められます。

 このアルバムに入っている曲のほとんどがいわゆる「(1-a)と(1-b)の融合パターン」ばかりです。ですから、このアルバムこそが制作サイドがやりたかった「大黒摩季のカラーの確立」であり、音楽プロデューサーの視点から見た「自信作」だといえるでしょう。実際、私自身も今までにリリースされている5枚の中では完成度がいちばん高いと思います。これなら買っても損はないでしょう。

 余談ですが、7曲目の「BLUE CHRISTMAS」だけ、ボーカルのミキシングが違うので、前から録り貯めておいた曲か、次のアルバム用に録り始めたか、のどちらかでしょう。曲の性格も他の6曲とはちょっとだけ違います。どーでもいいことですが、「LAST CHRISTMAS」のコード進行や構成をそのままパクってます(笑)。

アルバム全体の完成度から考えるとこういうシャレもあっていいものだというおおらかな気持ちにさえなります。

■ 4th ALBUM『永遠の夢に向かって』について [目次]

    4th ALBUM『永遠の夢に向かって』94/11/09
    1.「永遠の夢に向かって」
    2.「ROCKs」
    3.「戸惑いながら」(作曲:栗林誠一郎)
    4.「あなただけ見つめてる」
    5.「Return To My Love」(作曲:栗林誠一郎)
    6.「Stay with me baby」
    7.「孤独ヶ丘に見える夕陽」
    8.「GYPSY」
    9.「白いGradation」
    10.「Rainy Days」
    11.「夏が来る」

 「完成」のあとは「破壊」あるいば「冒険」です。アーチストの常套手段ですが、そこまで計算したうえで作ったのかどうかは不明です。
 このアルバムは楽曲をパターン分けできます。便宜上、今までと同じように分けてみましたが、それぞれの意味合いは若干変わってきています。それを分析することで、このアルバムの方向性が見えてきます。

(1-a)歌詞がほどんど耳に入らず、勢いで押し切るパターン
 私の耳が慣れてきたせいかもしれませんが(苦笑)、こういうパターンは3枚目以降、姿を消しました。

(aとbの融合パターン)
1.「永遠の夢に向かって」
4.「あなただけ見つめてる」
 いわゆる「大黒摩季ワールド」をひとことで言い表わすための楽曲。

(1-b)歌詞としては使われない言葉を使いまくるパターン
2.「ROCKs」
11.「夏が来る」

 実は、ここの区分は今までとは全然違う意味合いを持っています。以前、このパターンをDr.Pepperみたいな飲み心地と表現しましたが、ここで分けられているものは、Dr.Pepperとはちょっと違います。もっと毒性の強い、炭酸が強い本場のジンジャエールみたいなものでしょうか。

 聞き流すと単に「恥ずかしい」だけの歌詞でも、世間に対する痛烈な批判とメッセージが込められていて、ここに「大黒摩季」のアーチストとしての意志やら意地やらが出ている曲です。「永遠の夢に向かって」や「あなただけ見つめてる」の歌詞の一部もここに入るでしょう。

 今までアルバムを作ってきてどういう形でメッセージを伝えるのが効果的かを会得した結果、こういった方法論を作り上げたのではないかと思われます。本人の中に鬱積も溜まっているようですが、その鬱積がまたヘビーリスナーに支持されているのではないかと推察します。

(1-c)大黒摩季が歌う必然性がないが楽曲としてまあまあ許容できるパターン
3.「戸惑いながら」(作曲:栗林誠一郎)
5.「Return To My Love」(作曲:栗林誠一郎)
9.「白いGradation」
 栗林氏に「許容」とはあまりに失礼な気もしますが、特に3曲目は曲がまともすぎて(爆笑)食い足りなさ120%です。

(1-d)バラード系
6.「Stay with me baby」
10.「Rainy Days」

(1-e)その他
7.「孤独ヶ丘に見える夕陽」
8.「GYPSY」

 5、6、7曲目で大黒摩季本人がやりたかったことは何もないように感じます。
なのになぜこのアルバムに入れたのか……。残念ながら私はマニアックな知識を何も持っていないので、正確な分析はできません。メーカーが変わったこと、ビーイングのブルース戦略と密接に関係しているような気がしてなりません。これらの方向性は5枚目に引き継がれているわけでもありません。総合プロデューサーが変わって「大黒摩季の音楽を音楽として売る」というメーカーの最低限の良心が失われてしまったという気がしないでもないですが、真相はわかりません。
 後半に入っている曲(10.11は除く)は、最初の2枚と同じように分類すれば、いわゆる「駄曲」の部類です。曲の完成度はあっても大黒摩季が歌う必然性があまり感じられません。

 10曲目の「Rainy Days」はいわゆるスローバラードです。大黒摩季的歌唱法をつきつめていった結果、こういう歌い方になったものと推測されます。実は、こういうスタンスによる歌唱方法は、間違っていないばかりか、洋楽の世界ではいちばん正しいとされる歌い方に近いような気がします。語尾のこねくり回しや、感情表現の方法がどうとかを好みの範ちゅうに入れさえすれば、商品として成立しますし、プロでさえアルバムを通して基本的な歌唱技術を磨いていくという証明でもあるので、プロを目指す人には『STOP MOTION』の「ふたり」、『DA DA DA』の「求める未来が変わった」と、この曲を聴き比べてみて、その違いを確認してみることをおすすめします。

 余談ですが、「GYPSY」の符割がそのまま「いちばん近くにいてね」に使われているのは、「GYPSY」自体の出来に満足できなかったために、本人の意思により、作り直して実現させたような気がしてなりませんでした。

■ 5th ALBUM『LA. LA. LA.』について [目次]

    5th ALBUM『LA. LA. LA.』95/07/19
    1.「Tender Rain」
    2.「FIRE」
    3.「LOVIN' YOU」
    4.「いちばん近くにいてね」
    5.「あなたがいればそれだけでよかった」
    6.「Summer Breeze」
    7.「恋はメリーゴーランド」
    8.「太陽をつかまえに行こう」
    9.「もう一度だけ…」
    10.「ら・ら・ら」

 はっきりいってこのアルバム、駄作ではないでしょうか。全編通して聴くのが苦痛でなりません。ほとんどがラブソングですし、サウンドの方向性もいまいちよくわかりません。
 とりあえず先に何か好意的に受け取れそうなところを挙げておきます(ああ憂鬱だ)。
1.「Tender Rain」
 いわゆるwhisper voice。whisperといってもアイドルミニコミとは違いますよ。囁き語りかけるような歌い方に挑戦なんですが……。渋谷系がはやっているから、どうもその影響なのかも。「やればできるんだよ」と誇示したいようにも受け止められるけど、はっきり言って私は渋谷系、もしくはフレンチポップスを聴いたほうがいい。

2.「FIRE」
 これは一応、融合路線と「ROCKs」と、70年代フォークの大融合ということで評価の対象にならなくもないけど、私はこれを聴くなら久宝留理子の「コンクリートジャングル」を聴いてたほうがいいなぁ……。

5.「あなたがいればそれだけでよかった」
6.「Summer Breeze」
9.「もう一度だけ…」
 この3曲、スローテンポの曲なんですが、サウンドが85年ぐらいにイギリスで流行った感じなんだけど、最近こういうのが流行っているのかな。私は最近洋楽を聴かないのでよくわかんない。それとも4枚目でバラード唱法を確立したから、それを最確認させようとしたのかしら。

 残りの曲は毒にも薬にもならない、要は、夏に車の中で聞いてもらう(買ってもらう)ことだけを目的とした企画モノだという印象を拭えません。そうやって考えれば、この中で楽曲としてキャッチーな部類に入る「ら・ら・ら」がなぜこの時期に出たのかというのも納得がいくのでは……。

 この先どうなっていくのかは知りませんが、大黒摩季が大黒摩季として業界内でそのステータスを確立していったのは2枚目と3枚目です。それを探るという意味では、本論を書くことにそれなりの快感を覚えましたが、それ以降の「アーチストとしての展開」という部分の分析をしようとすると、作り手側の論理よりも売り手側の論理が強くなってきていて、なかなか筆が進みません。本来ならば、アーチストとしての土台を築いた後には、様々な冒険と挑戦があってしかるべきですが、そこがビーイング系のネックなのか限界なのかどうか、大黒摩季本人や彼女を育てる(&刺激してあげる)立場と、レコードを売る立場があまりうまく噛み合ってないような気がしてなりません。
 そんなわけで、大黒摩季プロジェクトにある区切りをつけるために、コンサートをやるというのもひとつの手であるという考え方もできそうです。4枚目と5枚目のアルバムの端々にライブがやりたいやりたいというサウンド的なメッセージもあることですし。

 長々とおつきあいありがとうございました。中途半端な形ではありますが、ひとまず、大黒摩季の音楽的な側面からの分析に筆を置きたいと思います。

 要するに、2枚目と3枚目だけ聴けば十分だということです。

 あとよくわからないのは、3枚目の歌詞カードがないのでクレジットが分からないんですが、ディレクターやプロデューサーが3枚目までと4枚目以降と誰がどう変わってるんでしょうか。そこらへんがアーチスト・大黒摩季をダメにしているキーパーソンのような気がしてならないんですが。

 ああ疲れたぞ。


追記 [目次]

  本論を打ち合わせ会議室で発表したのちに、本稿協力者Yさんによって若干の補足と質問がありましたので追記としてごく一部だけ紹介いたします。Yさんの発言は紺色で表示します。

感想を読んで2、3。

> あとよくわからないのは、3枚目の歌詞カードがないのでクレジットが分からな
>いんですが、ディレクターやプロデューサーが3枚目までと4枚目以降と誰がどう
>変わってるんでしょうか。そこらへんがアーチスト・大黒摩季をダメにしている
>キーパーソンのような気がしてならないんですが。

変わってないみたいっす(笑)

参考資料。笑えます(笑)

「Music Freak」5月号(より抜粋)

『DA DA DA』大黒摩季

 昨年秋にリリースされたアルバム『永遠の夢に向かって』、今年2月に発売された最新シングル「ら・ら・ら」が共に絶好調なセールスを記録している大黒摩季のセカンド・アルバムにあたるのがこの『DA DA DA』である。デビュー当時からそのセンス溢れる歌唱力と卓越したソング・ライティング能力をいかんなく発揮していた彼女だが、すでにこの2枚目のアルバムの時点で自身の“大黒摩季ワールド”を見事完璧に確立しているといえる。その内容は、M-1で見られる洒落たダンスビートのグルーヴにのって展開されるソウルフルでパンチの効いたボーカル、あくまでもその存在感はヘビー級である。そしてM-3は彼女にとって通算3枚目のシングルで、あの織田哲郎が曲を提供したもうおなじみのヒットナンバーである。M-4は、彼女の存在を完全メジャーに至らせたナンバーであり、通算2枚目のシングルである。いずれのナンバーからもひしひしと彼女の限りなく熱いバイタリティーと才能を感じさせるが、それでもまだこの時点ではそれが成長過程にしかすぎなかったのだと実感させられるところが彼女の天才たる由縁である。最近の大黒摩季しか知らないリスナーは是非ともこのアルバムを聴いてみるべし!きっと彼女のアーティストとしての“若きベテランぶり”をかいま見ることができるでしょう。

センスのない私(苦笑)として質問したいのですが、

(1) 「こういうスタンスによる歌唱方法」というのがよくわかりません。
(2) この文脈での「基本的な歌唱技術」というのがよくわかりません。

バカな質問ですみません…


>(1) 「こういうスタンスによる歌唱方法」というのがよくわかりません。
>(2) この文脈での「基本的な歌唱技術」というのがよくわかりません。

「こういうスタンスによる歌唱方法」とは、感情表現を放棄した歌い方を指します。「ふたり」「求める未来が変わった」は歌の中に感情を表現しようとして起伏をつけて歌っていますが、それは失敗に終わっています。
 感情表現に失敗しただけでなく、音程や音の伸ばし方、切り方なども今イチのような気がします。
 それらに比べて「Rainy Days」は、歌の中に感情の起伏はないものの、歌を「うまく(正確な音程で)」歌うことに徹しているような気がします。

 で、なんで私がそう感じたかというのが、実にへんてこな理由なのですが、久宝留理子のコンサートを見てて、最後にバラードを歌ったときなんです。
 そのバラードが神戸の震災のことを思い描いて作ったそうなんですが、その歌い方がどうもよくないんです。感情を込めて歌いすぎるあまり、自己満足から抜け切れなくて、人に伝える力が足りないように感じたんです。
 バラードで何かを伝えようとする場合、特にメッセージ色が強い場合には、普段のラブソングとは違って、感情を抑え気味に歌わないと、歌の持つメッセージに広がりが出てこないように思うのですよ。たまたまテレビでマライアキャリーがバラードを歌ったのを見て、そう感じてダイアナロスとかチャカカーンとかいろいろ思い出してしまって、先のように書いたんですけど。で、大黒摩季の「Rainy Days」の歌い方って、そのあたりの影響を受けたんだろうなって思って。

 ですから、あの文脈での「基本的な歌唱技術」とは文字どおり、正しい音程で正しい発声で正しい音符の使い方で歌う歌唱技術のつもりで書きました。感情表現は別個のつもりで書きました。

 あまり答えになってないかもしれないけど、回答させていただきました。


>  アレンジャーの音楽的バックグラウンドはいわゆる「フュージョン」なので、
> 処理が面倒になったときにはすぐそのジャンルへ逃げ込んで処理しています。
> ギターのカッティングが発売当時を考えてみてもかなり時代遅れです。

えと、アレンジャーもギターも葉山たけしだが、この人ブルーズの人だよ。

聞いたときにブルースの色を全然感じませんでした。
そのバックグラウンドを感じられないというのは、
(1)プロとして徹している
(2)実はこの人の体の中にブルースが染み込んでいない
このどちらなんでしょうか(笑)。
普通、アレンジャーとはいえ、なんらかの音楽活動をする場合、そのバックグラウンドは隠しきれないものです。木根尚登が人に作っても自分の曲でもアイドルポップスから逃れられないのと同じようなものです(って全然たとえになってないな)。

葉山たけしの件以外は、説得力もあるし、よろしいんじゃないでしょうか。
というか、この論、ウチのホームページに掲載したいんですが…(^^;;)


 「スクランブルエッグ」7号(97年9月発行)にて、8月1日レインボースクエア有明(東京)での大黒摩季の初ライブのレポートが掲載されています。


●関連サイト
Being Music Fantasy
彼女の所属しているB-Gram Recordsはじめ、ビーイング関係全般のアーティストを扱っているサイト。ライブ情報、番組出演情報、雑誌登場情報、新譜情報、ディスコグラフィなど、充実している。

大黒摩季オフィシャルホームページ
同サイトの中の大黒摩季のホームページ

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